前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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トークショーを終えて

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●概要
さる11月1日(水)、武蔵小金井の喫茶店フロンティアにて、詩人来空のトークショーが開かれた。「日本語と前頭葉」というテーマのもと、来空は語った。
少年時にビル群の倒れかかってくる幻覚を見た(その後電気により治癒)、それこそ前頭葉のもたらす身体言語だったという。5、7調は一つのやりかたに過ぎない、短詩には根源に自然のリズムが流れていなくてはならない。子どもの言葉には自然のリズムがある。松尾芭蕉、河東碧梧桐はもとより、江戸時代の哲学者三浦梅園、サッカー日本代表オシム監督など話題は多岐に渡り、只の文学論には納まらない座談会となった。

●内容
・日本語は?等時拍形式(自然のリズム)?膠着言語(くっつき、離れる)?一語多意味性(ひらがな)といった特長を持っていて、これは前頭葉を働かす自在性を持ち、日本詩歌に大きな成果がみられる。
・言葉には?含意性と?明示性がある。?は、韻律化に向かうもの、前言語、言霊、詩など。?は散文化に向かうもの。一般の文章、小説、論文など。今は散文化が極端にすすみ、こまかく説明してわからないところがない方がよいという傾向。わからないもの、見えないもの、説明できないものはどんどん軽視され切り捨てられている。
・今、日本の短詩といえば、俳句の5・7・5、短歌の5・7・5・7・7に限定されているが、日本の代表的詩人芭蕉と碧梧桐は二人ともそれぞれ「談林」「自由律」といった時代の散文精神(時代の俗)を体験しつつ、やがて、自分のリズム、韻律(芭蕉は5・7・5、碧梧桐は7・7)を確立した。はじめに5・7・5があったわけではない。
・ こどもの詩に「あーせいこうせい せんせいおっとせい」というものがあるが、これはこどもの声調そのもの。又、日本語は本来この作品のリズム(3・3・7拍子)をもっている。

三浦梅園(江戸時代の哲学者・医者)などは、存在するものは、見えるもの見えないもの、いずれも同じ価値だと言っている。
言葉の世界でも散文で表しきれないものも大切にしたい。詩の言葉とはそういうものだ。

だから、みんなもっと自由に、自分の呼吸、自然のリズムを感じて詩をかいてほしい。詩は驚きであり、発見であり、わけのわからないざわめきであり自分を他者を刺激するものだ。

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当日は来空の著作も販売。


●出席者の感想
「新鮮だった」
「おもしろかった」
「50年も続けてすごい生き方だと思うが、初めて聞く者にはむずかしく緊張した」
「日本語はラテン語と似ている」
「ものの見方、捉え方、考え方はさまざまで一つだけじゃない、ということが文学を学んでないものにも伝わってきました。『草林コスモス光り』の句が目の前に見えてきた気がします。」
「短詩を味わうには前頭葉を使うことが必要なんですね。新しいことばがあまりいろいろでてこないのは、短詩・俳句・現代詩などに洗脳されてるんですかね。ひだかさんの句「さよなら やさしさ まっくらな夜」が好きです」
「日本語が面白くてすばらしく、やさしい言葉であることがわかった」

来場してくださったみなさん、どうもありがとうございました!

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