前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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合唱するポエムと尺八 第二回:尾崎放哉

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放哉の句について来空の一言。

海がよく凪いで居る村の呉服屋
  ・・・時代としては上手にまとまってる。
あすのお天気をしやべる雀等と掃いている
  ・・・どうでもいい風景も日本語の詩として成り立つ。
まつかさそっくり火になった
  ・・・従来の書き方ではなく短く成り立つ。キレイだろうな?と思いますね。
口あけぬ蜆死んでゐる
  ・・・当たり前だけれども「お?そうか」となる。短律の良さ。

 <最後の手記より>
どっさり春の終りの雪ふり
肉がやせてくる太い骨である
一つの湯呑みを置いてむせている
春の山のうしろから烟りが出だした
  ・・・こう言いながら死んでいったんですね、人間の想いっていうのがよくわかる。


来空「山頭火・放哉は日本人の美意識。
日本の文学は無・空・間の部分が特徴的。短いほど無の部分が多い。
ヨーロッパのように絶え間なく言うのではなく、枠を決めて収めていくという島国根性。
取り込みながら断念する、そういう詩の作り方。日本という一つの精神状態。
短歌が並んだ長詩、それの、最後の締めの部分だけで面白いと言い出す人達がいる。
日本人が詩を作るということは、日本の知恵、民族の知恵。
そしてそれは短くなっても構造的である。」

★尾崎放哉の句を朗読(尺八の曲は「虚空鈴慕(こくうれいぼ)」)you tubeアップ準備中です
「地球から宇宙へ発しているものの中に尺八がある。笛は原始的。呼吸。」

来空「言葉というのは時代と共に生きていく。
ポエム(韻文)・・・表面の道具としての言葉じゃなくて、いろんなものがそこに込められている。
受け入れられなくても平気。自分は言いたいことを言ってるから。
こう生きて行きたいよ?という願望みたいなものが詩形を作っている。
短詩のどこが輝きでどこが光であったか?どうして短律になってきたのか?
空はどこまで行っても何もない。
形ある世界に、どっかで裏返ってほしい、という気持を込めて。」


以下は、第一回、第二回共通のレジュメ内容です↓


日本語の特質・構造等

「八百万の神います」
目に見えないもの、明らかでないもの、不思議なもの、魑魅魍魎を認める世界観。そして日本語の五十音、一語(一音)はそれぞれ独立しその中に多くの意味を含んでいる。すべての存在は等価であるという思想。

膠着語・・・
一語一語(一音一音)が自由にくっつく、これは又自由に離れることも意味する。どこまでも長くなるし、短くもなる。

等時拍・・・
心臓音、かしわ手(有音拍+無音拍)に基づく。二音、三音、四音とつながってリズムができる。三三七拍子(和歌短歌の世界・讃歌)、三三三一拍子(俳句の世界・断念)は典型化されたリズム。(三三一拍子の「一」で断念“。そうじゃないんだよ?”)

文字・・・
漢字、国字、ひらがな、カタカナを持ち、外来語なども組み合わせ、自在に造語したり、きわめて多様かつ微細な表現が可能である。

詩は 

「詩は遊びである。それは真面目の彼岸に立っている」 ホイジンハ(ホイジンガ)
遊びには恍惚と不安の両面がある。遊びには危険というものがはじめから含まれている。
ここは絶対安全だ、という所では遊べないのが遊びの本質であり、詩の本質であるといえる。

ことばに於いて遊ぶ

ことばを意味だけで捉えるのではなく、ことばからできるだけ意味を削ぎ落として、ことばそのものに忠実になる、そうしたときにかえってことばとことばがくっついてくる、声調が出てくることに気づく、つまり詩に気づく。ことばは自己を越えたもの、他者であってそのことば達に自分が出会っていく。ことばを発見していくということは自分自身を発見すること、それを発見にとどまらせず、一つの文体にしていく時、詩がある。つまり一つの認識の体系が現れてくる。

詩は、伝統、古い価値、定まった美意識等と、現実、時代の俗等との境界の葛藤から、よりよく生きる行為を求めてゆくもの。自己の生き方(声調)が、作品の文体として現われる。

詩のことば、散文に対する韻文は、散文では説明できないものを表わす。散文の明示性に対し含意性をもつ。散文は一本の糸状に言葉を並べたもの、韻文はその糸を切りながら(空間を設けながら)繋いだもの。
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