前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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時代がポエムをつくり出すのだ 

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 最近、ポエムについてもっと具体的に書こうと思うようになった。

 本当は、あたりまえのことは説明しないでいい、具体的に書かないでいい常識、回文も、日本では歴史的な知恵だから、その事実を説明しないで済むと考えていたが、「遊びにすぎる」との批判が一般的な常識であったとは。

 私が回文を面白いと思ったのは、幼少時、清川江(北朝鮮)に流れ込む小川に入った時、アシウラにもぐりこんで来たフナを摑まえて、はじめて見たフナが対称的(シンメトリー)な形をしていることに驚いたことにはじまっている。

 生きる動物の肢体がバランスよく左右を保っているのはフナだけじゃない。自然に生きる姿勢は、自然に左右を定めているようだった。

 集まってくる子供達を呼ぶのに、右から呼んでも左から呼んでも差支えなかった。その場その場で、どこに遊びに行くか、何をして遊ぶかで決まったのだから、だいたいポエムの語順がはじめから決まるというオキテがあるわけじゃない。

 ポエムの場合も、コトバがはじめから決まっているわけはない。目的さだまって、順序も定まって行くようなものだ。

 私のポエム、回文も、ポエムの必然にかかわった時、自然に書きはじめたもので、現代は、もう定型とかポエムにもかかわりたくないところで書いているが、そこで今日書いた回文を示しておこう。


・イセコンデスズテンコセイ


「イセコンデ」は伊勢参り、民族的な日本人の信仰が混み合っているサマ。「スズ」も「鈴」で「鈴生り」でもイイ。「テン」は「天」で、空のイメージもあった。あるいは「点呼」ととらえるのも自由。そしてそれは「コセイ」=個性と、とらえることも自由で、「テンコ」しろと言う応答関係も含んでいるのだ。

 つまり、ポエムは、読む自由があって、そこでどう捉えても、自由でいいので、はじめから散文の意味で捉えようとし、あるいは情緒とか抒情で読もうとする方もいるが、その奇妙さや、キテレツさえも含めていいものとしているのだ。

 それは一つの定まり方を決め、それ以外の発想を読めないとする、定型的な順応もそういう具合に定まっている、証。


イセコンデスズテンコセイ

  5    2  2   3

      ←4 →

         ← 5 →



 リズムで読めば、声調が五、七と、音調に強くかかわる事実を認めねばならないだろう。
別の一首、


・ミヲウシナイナシウオミ


 この首は私の場合、全部ひらがなで書いた方が、回文句調を強くするもののようだが、


・みをうしないなしうおみ
・肉体(み)を失いなし魚(うお)肉体(み)



 大正五年ヘキゴドーは、自由律のはじめに、二音綴のポエム、


・萩咲く原水踏むまで行く(ヘキゴドー)


 があったと、ここに記録しておこう。等時拍音形式、シンゾーの脈搏音ではじまったもの。


みを/うし/ない/なし/うおみ


で読んでおきたいのだ。

 また、ここで今一つ、その後出来た私のポエムを書き加えておきたい。


・おがめショー勉強ブッダ


 むろんポエムは、口頭語でよんでもいいのだ。


・おがめしょーべんきょうぶっだ
・拝め小便今日仏陀



 「おがめ小便」で切れて「今日」と読んでもいいのであって、その時「ぶっだ」は「仏陀」、それは「死んじゃった」という意味をもっても、一向に差支えないのだ。

 今日、大衆が求める喜劇的テレビは、超滑稽ショーなどいくらでもあるが、ポエムも「拝めショー」を作っていいのだ。勉強を強調するなら、「べんきょう」が「ぶっだ」となることも、一つの表現だ。

 ここで、回文の意義を書こうとしたわけではない。またリズムが心臓音に基づくことを強調したいわけじゃない。私がポエムを書きはじめたのは、日本のタンカ、ハンカ、センリュウなどというものにかかわることではなく、時代がポエムをつくるという、具体的な歓狂を体験したいからなのだ。

 ポエムが時代を迎えているのじゃない。時代がポエムを作り出している、と考えるべきだろう。
 私が少年の頃読んだ、昭和十一年のヘキゴドーのポエム、


・鵜の音(ね)雛(もろ)とも巣立つがもろ音(ね) (ヘキゴドー)


 このポエムを読んだ時から、宇宙(う)の音(ね)もろともに、地球上に鳴く鵜の雛ともに育つ音も、聞いたのが、私の初的感覚だったのだから。


来空(平成24,5,10)

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2012.5

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*写真は来空五十代の頃。

ポエムは常にフレッシュで刺激的である。
昔の作品は、昔の人には刺激的だったろうが、
今の人にとっては刺激もなんにもない。

俳句が時代を写生してるけど、
ほんとうは時代が叫びたいんや。
時代がポエムをこしらえる。
ここから冒険が始まる。


我流だからこそ難しい。しかし我流を徹したらなんでも書ける。
努力して超えちゃったらあとは楽。なんでもできる。
努力することは徹すること。

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次回リトルポエムは6月30日(土)13:00~16:00頃
武蔵野公園のくじら山付近で行います!


武蔵野公園:JR「武蔵小金井」北口から京王バス 調布行き「武蔵野公園」下車すぐ
もしくは多磨霊園または多磨町行き「多磨町」下車 徒歩3分。
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/access056.html
くじら山(公園の左(西)の方):http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/map056.html

★バス停からくじら山が少し遠いので、武蔵小金井駅南口から徒歩もおすすめです(20~30分)
大体の地図:http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&biw=1057&bih=606&q=%E5%B0%8F%E9%87%91%E4%BA%95%E5%B8%82%E5%89%8D%E5%8E%9F%E7%94%BA%E4%BA%8C%E4%B8%81%E7%9B%AE&wrapid=tlif130309981118711&um=1&gl=jp&resnum=1&ie=UTF-8&hq=&hnear=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B0%8F%E9%87%91%E4%BA%95%E5%B8%82%E5%89%8D%E5%8E%9F%E7%94%BA%EF%BC%92%E4%B8%81%E7%9B%AE&gl=jp&ei=jL2rTb38EYySuwP95rmUCg&sa=X&oi=geocode_result&ct=image&resnum=1&ved=0CB0Q8gEwAA

*雨天の場合は喫茶「フロンティア」で行います。

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●5月の作品 来空評
(2012年5月18日(金)喫茶フロンティアにて)


・らちをはからんのっぺ言霊  (来空)

・いま地球神よみがえらん言霊  (来空)

・鵜よりも宇宙も満ち!魑魅魍魎 <回文> (来空)

・いたくも日常よし血にも具体 <回文> (来空)

・裸足板をふむ列車でたんぽぽ  (桂久爾)


「を」「で」は取る。「たんぽぽ」細かくなりすぎる。
音的に強くなる時、コトバ(気力)充ちる。
「たんぽぽ」に「裸足」「ふむ」が合わない。
「裸足板をふむ」の感覚が固い。
「裸足」「たんぽぽ」日本的。
ポポ、ポッポー
ラソクイタフム
「たん」短い、とかいろんな意味ある。「ぽぽ」だけが効いてくる。
「裸足」→「らそく」→「そく」→「くそ」→糞も出てくる。
ポポンポッポー裸足板ふむ列車

・からすくそふむかぜのもり  (桂久爾)

元:からすくそふむかぜのもりもり
もりもりにすると一つの形容になってしまう。
不思議な句になるの。なんでか。
風には森があるなんて言われたことねーわ。
情緒的でありながら情緒を超えてる。
これは、生活、生きることのすごさ。
これ不思議な句だわ。

・銀河をおちたたびの蝶  (桂久爾)

元:線路に落ちた旅の手 蝶
「に」説明くさい。くだらないわ。
どうにもならん。平凡。
「銀河をおちたたびの蝶」か
「たびの蝶 銀河をおちた」にすれば可。

・どよめくすあしタンポポ  (桂久爾)

・あざみたわみてはなあそび  (桂久爾)


キレイな句だわ。
直しようがない。

・マウンドバカほーるぽんぽこ  (豆丹)

非常に楽しいわ。バカを放ってるんやな。
グラウンドで太鼓たたいてるようやな。
バカのように楽しむ少年だとかも出てくる。
バカがバカを掘ってる。
もう一つ詰めんのも自分、遊ぶのも自分、
夢見るのも自分、あとは自分の勝負や。

・来空たねまきめ  (豆丹)

たねまきめっていうのが面白いなあ。
これだけでも十分面白いが、いよいよ自分らしくするには、
例えば「はだか来、空たねまきめ」
「はだか来空 たねまきめ」など
元のだと決まっちゃってて動かないから動きを出す。
余裕と葛藤を持つ。大らかになること。
夏が近づいてきたオレの季節もある。
はだかで何やってるかっていうと種蒔いてるんや。

・解いて虚し只嗜む程度 <回文> (あねご)

悪い句じゃない。心理状態。
人が今までに言ってないこと。
ただし驚きとしては伝わらない。
「只」はない方が直接的になる。あるいは「虚しいな」にする。
回文ではなくなるが、
「たしなむならといてむなしいな」
にすると、絶叫が出てくる。叫びである。
言いたかったところまで深く出てくる。
生きてる理屈ってものは言葉の並べ方にもよる。
自分への愛着と否定…心情の葛藤感じる。

・凹んだままことばのそとへ出る  (野谷)

・自己祭り原発を祭った  (浩)

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