前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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「短詩を作ろう、子どものように、感じるままに」

070725 057


第一回:1月19日(土)
第二回:2月9日(土)
時間:午後二時から
場所:小金井市前原暫定集会施設
テーマ:「短詩を作ろう、子どものように、感じるままに」
講師:来空(写真)
参加費:無料

詩は、驚き、発見、夢、冒険!
詩は説明するのではなく、むしろ説明できないことを表現します。
例:6月作品から恋した、たくさん星うまれた

ご参加お待ちしています!

地図
http://www.koganei-cs.org/map.html

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牡蛎船に大阪一の艶話かな

M39

運河がどこまでも入りくんでいる大阪では、牡蛎船はどこでも見られた風景。牡蛎船での飲酒は夜毎盛りあがりを見せていた。当然、カキ船では常時男女の自慢話があったが、その中、そのこもった愛欲が、大阪一の艶話になったという、この誇張が非常に面白い。世界一でなく、日本一でなく、大阪一というところにそこはかとなくある大阪人の気概!

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雀蛤となるべきちぎりもぎりかな

M34

「雀蛤となる」は初期の木の葉の茂りを「雀隠し」というように、茶褐色模様の類同性をさす俗語。
「ちぎり」はチギり、契り、「もぎり」はモギとることで契約、奪取といった意味も含みもつけれども、ここに客観的、状況的にとらえた社会があったともいえるのではないか。
碧梧桐の社会を見る目は確立していた。
おおまかにくみこんだ余裕が感じられる。

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あきかぜぞまたをくぐって失にけり

M23

あたま(上五)にある「ぞ」の入り方がオモシロイ。当時さえ、こうしたホックは珍しいのだ。
股間をくぐって無くなる秋風だから、「秋風ぞ」という強い言い方ができる。
当時より碧梧桐には、この句のようなザレ句が多いが、そこに一般的普遍があって、見えてない世界を体感させる俗的なかかわり方があることに注目を・・・。

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桑植て紅葉のことは知らぬ也

M38

どうしてそうなるのか、一瞬不審がおこるかも知れない。紅葉を知らない人は存在しないから・・・。
しかしさらに一瞬後、桑植える人々、蚕飼う人々、絹を織る人達の生活が身近にある時、ハタとこの作品の意味を諒解してしまう。
桑の木は植えて後、紅葉を見ることはないのだ。つまり、青葉であるうちに蚕の為に、ひっきりなしにむしりとられる。桑は青葉から裸になるまでムシリとられるのだ。
わからないことが、一瞬わかることになる。そこには日常生活をとおして、新鮮さがあらわれるのだ。
この感覚の段差にも、詩的感激がひそんでいるといえるのではないか。

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木枯や谷中の道を塔の下

M33

木を枯らす風という意で、凩とも書く、初冬に吹く強い風で、落葉を誘う。谷中は東京台東区、上野公園の北方に続くあたりで、寺院や基地が多く樹木も多い。子規の住んだ根岸にも近いので、実際に歩いたに違いない。寺院や基地の道を歩いて来て、塔の下へ来ると、ひとしおその冬らしい感が身にせまる。頭を圧するような木枯の中の古塔・・・・・・(阿部喜三男)

克明に書かれた阿部の鑑賞をただ追うだけでよいようだ。碧梧桐の吟詠さえ、克明、適格。
コトバを追うだけで、声調を感じさせる。

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会下の友想へば銀杏黄落す

M40

「会下(えげ)の友想へば」というは、共に参禅した友を指していう。銀杏黄落(おうらく)する目前の風物のあわれなる時、七友を想起したというのである。会下の友だけに、銀杏の厳粛な木ぶりやら玲瓏たる黄葉やらが調和するように思う。(大須賀乙字)

一つのあたらしい表現として、古語漢語を甦らせることも、コトバをどう働かせるか、体験しなければならない作家的必然。時代時代は、つねにそうした過程をも含んでいるとしなければならない。
確いコトバ黄落を、空一面に見立てて効果を出している。

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山持て自ら木の実植ゑにけり

M36

虚子側の言葉、

 「木の実植ゑ」といえば、直ちに白い鬚でも延した隠者風の人物、人里離れた場所を連想するところ。

に対して碧梧桐は、

 山林家が杉とか桧とか山へ植付けるような木の実を植えるという実地の場合。

とした。
保守的、過去的なものとなった美意識や空想に近づくのでなくて、とにかく、いったん現実へかえす、散文精神とか、口語発想といったもののなかに自己を置くこと。つまり、現実的、普遍的世界でする呼吸の問題・・・。

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からまつは淋しき木なり赤蜻蛉

M35

後に、この作品は北原白秋の有名な作

 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。

(「落葉松」・・・大正十年十月)とくらべ、「からまつ」を「淋しき木」と見る詩人の眼は相通じている(大野林火)と書かれているけれども、それはもう、二十年を隔つ模倣と知らねばならないのだ。
ある意味で、時代の感性は散文とともに動いたものでもあって、白秋は碧梧桐をただ情況的に受け継いだ傾向にあるとも言える。
子規が「芭蕉雑談」で、

 古を模倣せしにあらずして自ら発明せしなり

と語ったように、新たにどのように捉え直したかが問題なのだ。
碧梧桐にはからまつに重層した赤蜻蛉(とんぼ)群の色彩がある。

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詩の教室?万葉のこころ?まとめ

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19年10月13日(土) 午後2?4時
小金井コミュニティスクール「詩の教室」開催
於・前原暫定集会施設

講師 来空   
題 万葉のこころ
        
西暦312から759年、まさに450年に及ぶ膨大な歌集である万葉集。このたくさんの人たちの言葉(万葉)を貫くものはなにか。
それは、一言でいえば、いろいろな現実、矛盾に対する憤怒。それが言葉の力になっている。
しかしながら、ここ1500年もの間、その解釈は、風景が美しいといったところにとどまり、見方が偏っていたのではないか。

イ・ヨンヒという韓国の学者が、従来雑歌といわれてきたものを,国盗り歌と解釈、その他猥歌的解釈を主張、激論となった。今もこれに対しての中傷、反論もあるが、今日、このような視点も必要ではないか。
詩は表面にでている言葉を説明しただけでは、本質を見失うものである。こめられた想いがあるはず。いつの時代も、人間の夢・願望に向かってかくものが詩であろう。万葉集の解釈もこれからはもっと、その底にある、時代の夢、時代の情念をさぐりつつ、考えていくべきであろう。

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