前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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謡初四拍手已に参りたる

十代後半から碧梧桐は能(宝生流)にかかわっていたが、当然ながら、謡そのものに四拍手を見出していたのだ。
談林から蕉風に至る芭蕉のリズム変化が、三三七拍手と手打ちの手拍子との葛藤にほかならなかった事実を、碧梧桐は知っていたのだ。

○○○○○○○○|○○○○○○○○|
           |○○○○○○○○|○○○○○○○○

その三十六拍の和歌方式(並列)から、中八拍を重複(内包)する二重構造と把え、短詩は、表層二十四拍として成立する構造をみている。
 
 うたいぞめ|よんびょうしすでに|
       |よんびょうしすでに|まいりたる

碧梧桐に読めていた、初五を前提、中七を葛藤、下五を認識とする心的構造が、以降の日本人に読めなっかたことに注目しなければならない。

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掛乞や金庫は空と見てのけぬ

掛乞は、掛を乞うこと、支払日を月末にまとめるなどの方法。

日本には大不況がおとづれていた。どこの商店や会社の金庫も空ッポ。資本主義は不況や各国の戦争を招来していたのである。
江戸時代からあった社会批判や諧謔を一層認識しなければならなかった。

碧梧桐は主張していないが、「川柳」を“ふくもの”とはしていたのだ。むしろ、「短歌」「俳句」「川柳」と細分化することを、短詩の弱体化と捉えていたのだった。

碧梧桐こそ日本のコトバの問題を一貫して包括的に捉えた詩人―。

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(カテゴリー「お知らせ」9/7の日記)



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鳥渡る博物館の林かな

久しぶりに博物館をおとずれ、その林の上に仰いだ空の渡り鳥、すべてが林に集中するような、単純な構成の句であるが、地上の林と天上の渡り鳥との距離が作者の孤独をかみしめる。
単純であることは、俳句にとって決してマイナスでなく、むしろプラスで、複雑を秘めた単純、単純化による深化は短詩型の本願。(中島斌雄)
とも書かれたとおり、日本語詩形の特質が構造的にすきとおって見える作品。そのように見えることが、語らなかった碧梧桐の心情の深さを語っている。

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門跡に我も端居や大文字

この句、大文字を眺める場所が本願寺なのがよい。
しずかな広縁に作者は端居していたのであろう。
門跡なる語が実によく一句に溶け込み、また一句に働きかけている。

この門跡は本願寺管長、大谷光演のこと、大文字は8月16日の夜、京都如意岳の中腹で大の字形に焚く、人間の煩悩を焼き尽す篝火のこと。
句仏は碧梧桐の四年にわたる「三千里」紀行を援助したバックボーン。後年句仏は、師弟といわんよりも、朋友といわんよりも、むしろ兄弟という親しみを指しておりしことを、今もつくづく懐かしく思う。と回顧している。
その二人の生涯に渡るスペースが、この作品に示されている。

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ひやゝゝと積木が上に海見ゆる

積木は子供が海にも倦いて座敷で遊んでいるのであろう。
その五彩に塗られた積木の家の向こうに、あおあおと海が展けて見れる。碧梧桐はそこに秋を知った。
この海には泳ぐ人影も見当たらない。
「冷やか」と置かず「ひやひや」という感覚的なる言葉を選んだのは碧梧桐らしい。(大野悌火)

当時、碧梧桐には子はなく、美矢子を養女としたのは41年、出典から見てもこの句は、想像の作とわかる。(阿部喜三男)

「ひとたびの記」以降、碧梧桐は青木月斗の妹茂栄を妻としたが、養女美矢子も月斗の娘、こうして日常とも深い縁をもつけれどそれもまたつくねいも的な性格の所以か。

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天を焦がして漁火の明け易き夜かな

前句の「ひく波」に残った恨と同様に、この句も自己確認であったに違いない。
実際、普遍的に捉え直してみるなら、現代、詩にかかわるものにも、これら作品のように、心情的に他人の同情を惹いて、その同情に媚びる傾向があるとしなければならないようだ。
多分、この期にはじまった子規の短詩再説も、もっと根基的な深い提起としなければならないが、ただ単に表層的な思いのあるなしといったもので支配されたとも―。

☆来空トークショーに関しては、9月7日をご覧ください!
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ひく波の引き去らざる恨み明け易き

「ひとり旅の記」は殆どが嘱目吟。
しかし、子規へ異聞珍談をもたらそうとこころがけ乍らも、碧梧桐が「孤枕夢驚き易く絶えざる憂あるなり、酒以て酔ふことを知らず、手を打てども宿婢予を蔑りて答ふること稀なり。如今東の空の恋しさそも誰に語りてか慰めん」と書くとき、錯乱した現実があったのだ。ひく浪とともに去らずに、恨が残った事実にがくぜんとしたのだ。
時代として、こうした心的構造までも充分に示した一句。

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ポスター

20061002233327.jpgposter.jpg


来空トークショーのチラシとポスター☆

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すやすやと寝入り給ひし火鉢かな

子規子(追憶)

M40

碧梧桐は、初心時代「エライ正岡信仰ぢゃノー」と父親に言われたが、真正面から子規を批判する大胆さがあった。むしろ全的な自己を暴露してぶつかる対象を持ち得たともいえよう。

子規庵の蕪村忌(明治三十五年)に写真を撮る時、人が沢山で庭に筵を敷いて二重三重に並んだ。子規居士の座席だけをあけて鳴雪翁を中心に座ったり、中腰になったり立ったりする。いよいよよしとなって、子規居士を碧梧桐が背負って来る。なかなか仕事だ。身体のいづくに触れても痛むのである。子規居士は、顔をしかめて痛さを耐えられるのである。ようやく中央の座に下ろして、脇息に凭れて横ぢりに座らせた。この間、一同は声を呑んで、眉をよせて心配の気配にうち眺めるのであった。この子規居士を、おんぶして椎の木の下に並んだ三十幾人の中央正面に座らせるのは碧梧桐でなければ出来ぬ大役であった。(青木月斗『碧梧桐の思い出』)

この作品など、読後、ただ頭を垂れるだけであった。
すべてを賭けることができた碧梧桐の正直さ、素直さは、詩にかかわるやさしさをも語るのではなかったか。

☆来空トークショーに関しては、9月7日をご覧ください!
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