前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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チミモウリョウを越え行くポエム 

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少年時代、私がもっとも惹かれたポエムは、それを読み切った時、
「頭のてっぺんから、足のうらまで貫く感動がある」と言ったところにある。
コトバがもつ抒情の問題とか、リズムの問題でなくて、ただ、ノーテンンから全身を貫く、表現し得ない感覚、電波のようなものだった。
この感動、万葉集、和歌、俳句にあったというものでもなかった。
自己が生きる社会の状況を感覚的に含むものとしてそれはあったというしかない。
私の生れ育った朝鮮は、魑魅魍魎という、どこまでも不明の部分があって、そこが魅力をもつものであったのだ。
人間の思考や化学が発達してそのチミモウリョウも逐一説けたように見えるが、その解明は、チミモウリョウを一層増加させ、ただ盛大化するものだった。
宇宙を一層巨大化して、その存在が問われたように現実に存在するすべての事象は、解明するほど、一層、巨大化するものなのだ。
現在、ウツ病が流行。いよいよそれを尨大化させている。
つまり、こまかいところまでコトバを普遍化してもコトバを散文化するようなもので、散文化するとき、もっとも大切な、生きる、そのよろこびを失うという、必然を生むものなのだ。
実際、人間にウツ病を尨大化させているのは、人間が考え方を決めてしまったこと、それは、思想、宗教、哲学を誤ってしまったことが根源にある。
私にとって、朝鮮での体験が、生きるものとして、その生きた動物的なもの、生命が輝くものと見たように、人間も生きること自体が輝くことだった。
芭蕉が談林から蕉風に至って、それが現実を越える夢としてあったように、時代を越える夢はヘキゴトーにもあった。
変革そのことに、時代の夢も存在するということだ。
ヘキゴトーのいう、「国境をもたない」主義は、いろいろの山をとりこんで、それを散文に分類することではなかった。科学するところにも、それを盲信した過大な過ちの指摘ではなかったか。
無限大といっていい宇宙というものも真空の只中。このように思うとき、人間とか動物が、地球に大気があって存在するもの、と気付く筈だったのだが・・・。
ホント異常なのは、人間の歴史、人間の文明とか文化といったものが、尨大な実質を科学、散文などで、細分化したところを信じてしまって、生命そのもの、生き物そのものの命を見失ったことだろう。
ヘキゴトーの言う「国境はない」感覚は、人間の感じ方、考え方が、どのように細分化しようとも、細分化したことを信用しないということだ。
日本が世界でもっとも短いポエムをつくり出したのは、夢を賭ける夢として、空に書かれた落書き。また、夜空を駆けあがって、一瞬の稲光のように輝くものであったのではないか。
ポエム、それはチミモウリョウを越えて行くもの、だから、常にチミモウリョウを含んだものでなければならないのだ。
最後に最近の私の試行を記録しておこう。

・あのジジイゴト串刺「日本(ザンギ)」

・ひをすねびはぴねすおび

H25/2/20 来空

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