前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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山持て自ら木の実植ゑにけり

M36

虚子側の言葉、

 「木の実植ゑ」といえば、直ちに白い鬚でも延した隠者風の人物、人里離れた場所を連想するところ。

に対して碧梧桐は、

 山林家が杉とか桧とか山へ植付けるような木の実を植えるという実地の場合。

とした。
保守的、過去的なものとなった美意識や空想に近づくのでなくて、とにかく、いったん現実へかえす、散文精神とか、口語発想といったもののなかに自己を置くこと。つまり、現実的、普遍的世界でする呼吸の問題・・・。

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夜に入りて蕃椒(とうがらし)煮る台所

M30

此の理屈無き処、殆ど工夫的の痕跡を留めざる処、意匠は日常の瑣事ながらも豪も陳腐ならざる処、句法亦平易にして切字あるが如く無きが如く、しかも能く切るゝ処、激烈に感情を鼓動する者ならずして、淡白水の如き趣味を寓する処、極端に新体を現したる所以。(正岡子規)

古人の作例に拘泥せず、未開地への展開をこころがけながらも、一方で、碧梧桐には現実を的確にそのままに書き上げる、自動筆記的な作品も多く書かれていたとしなければならない。コトバをしっかと踏まえているのだ。

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嫁が君枡も設けぬ世なりけり

M36

「嫁が君」は鼠のことで、こまごまと働く奥さんとか嫁さんとかの愛称。
そのこまごました生活にも敬意がこめられていたのだろう。
昔、女性は低い地位にあったという一般論があったが、それは誤っている。本来、日本では江戸時代から嫁が君というコトバがあるように、女性は愛着されていた、というのが日本の現実であった。
この作品の場合は、女性は世の中の規範(枡)をもたない自然そのものと認められておおらかに唱われている。
碧梧桐は虚子とともに酒色遊蕩、花街で遊んでいるが、遊女を通して、むしろ女性が勝っている世界を認めたのではなかったか・・・。

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四頭立て同じ早さに競べけり

M36

碧梧桐は四拍子に気付いて、数字「四」にこだわり、謡を四拍子と断言した作品もあったが、この作品も、四頭立ての馬か牛かは不明だが、競べられている同じ早さに注目している。この作品、

四頭立て同じ早さに
同じ早さに競べけり

と並べて、三三七拍子的に読む時、この二つの説明的なリズムに乗せるか、乗せないかに、和歌俳句の変化があって、末尾「けり」で沈黙を深めることも一つの要点であると見ることができよう。リズムは状況に応じて変化が促される。

日本サッカー監督に就任したオシムが、走るサッカーを提唱したが、コトバも走り続けなければならない。状況を見る(社会を見、地球を見、宇宙を見る)、そして走り続けながらゴール(人間の願望)へ向けて蹴り込むボール(夢)でなければならないとしているのだ。詩の至言でもあった。

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夜の大通りに出て登山戻りの手荷物

T6

登山家としてさきがけた碧梧桐は、当然ながら登山句をはじめて書いた人でもあった。
登山戻りの手荷物を夜の大通りにあるかせる感慨が、とてもいい。
上下句の真ン中にある空間が深いのである。
│←11音→│←11音→│

他の登山家たちは、登山帰りの手荷物にこだわっていないが、碧梧桐は登山に際して必ず山岳図(当時案内図などなかった)を手書きしており、また、山の生活者との交遊も深めていた。碧梧桐は著名人をきらっていた。功績云々をしない人であった。

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