前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

森の奥に谺(こだま)する鳴きうつる鳥

T13

和歌とか、俳諧とか、発句とか、俳句とか言いならして来た、日本短詩の、それぞれが誇った詩的効果は、ここに見事に納まっている。と、いっていいのではないか。

写生とか季題は、我れ自らを仮託するためであって決して環境を写すことが目的ではない。詩としての実質を具備せしめるため、環境の実態を借りたものと見なければならない。(碧梧桐)

―のだから。現在は、碧梧桐が「二十年間の迷妄」(大正十四年)で語ったとおり、

生活を意義づける思想感情は一所に停滞しておらぬ。詩風の変遷は、今日以後の努力の自然に放任すべきである。

が至当。

スポンサーサイト

PageTop

見つむれハ毒ふきかけん蟇(ひきがえる)

靉光「目のある風景」


M27

「見つむる」は「見詰める」の文語、口語なら「見つむれバ」でもいい。

蟇はのそりのそり歩くことはあっても、普通は微動だにしないから、その形相かもしれない。
いや、やはり目だ。
私の少年期の記憶では、ひきかえるの目は魑魅魍魎、人間に臆しもしない。五分間は見合っていたが、毒吹きかける目で私の方が目を反らしてしまったのだった。
私に自然の深さ、コワサを伝える目だったのが、以降も、蟇とは逢っても見合っていない。
私が逃げ出したコワイ思い出。

この句を読むと靉光の描いた「目玉」を思い出す。
私にとって、「毒ふきかけん」はスゴイ表現だ。

PageTop

門構へ小城下ながら足袋屋かな

M40

小城下という町中にも大きな門構えがあった。それは足袋屋という即景だが、まず上五「門構え」をおいて、どのようなという驚きの提示となっている。語順すなわち論理、リズムさえ論理をもつ関係が示唆されている。
この格調高い論調も、五七五という日本の語の形が芭蕉を継いで、俳句という一つの典型となったことを示していよう。
要するに、碧梧桐の「新傾向」前の「春夏秋冬」「続春夏秋冬」傾向は、俳句が定形という一つの価値なのを示している。
虚子の昭和に入ってからの俳句定型が俳句の基準となったことには、碧梧桐を排除する政策的な、詭弁があったとしなければならない。
当時こうした作風は、碧梧桐系に数多く見出せる。

PageTop

短夜や町を砲車の過ぐる音

M31

「発句」から「競り吟」、「十句集」と作風変化を見せていたが、ここに子規の日清戦争従軍、碧梧桐の日露戦争従軍の失敗があったのを記憶しておきたい。たしかに一つの必然、新聞記者の目の中に当時の状況がタルくてニブい音とともに刻印されている。

PageTop

万葉の歌に後なき寒さかな

M38

従来、作品鑑賞にこうした作風はとりあげない気風が日本にはあった。それは、日本の詩歌を構造的には問わないという重大な欠陥だった。

この句は、万葉にあった怨念とか憤怒といっていい不可解なものが、短歌や俳句に失われたということを指摘しているだろう。

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。