前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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菜の花に汐さし上る小川かな

M28

その可愛らしい黄色い花が一面に咲き続いたさまは、ために天地が明るくなったような感じがし、「菜の花あかり」という語もあった。

菜の花や月は東に日は西に 蕪村

この上げ汐の時刻はいつと決めがたいが、海に近い野の小川であろう。上げ汐時の、異様な感もある流れ、菜の花も静かに揺れている。(阿部喜三男)

阿部がこう書き、また続けて、

「この年頃から子規派の俳句も上げ汐、碧梧桐においても然り。」

と書いているとおりに見てよい作品だろう。

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並び居て蛙のやうな顔があり

M39

詩というものがあったとして、それが日本のようにすでに詩形が絶対的なものとされている場所では、素直なあるがままの私小説的な表現が、新鮮な驚きとして見直される関係もあったろう。
この何でもない蛙のような顔、今風にいえばマンガチックなとらえ方が、感覚的には笑いをともなった俗としてあったのだ。
蛙ととらえた人の顔は、この作品以降、短歌、俳句、川柳でも多く見られたが、やはり文体をどう変化させるかの情念の中に胎芽があったことを認識しなければならない。
要は、真似ることではなく夢を希求する情念の問題―。

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流れたる花屋の水の氷りけり

M34

水を常時から豊富にあつかう花屋から水が流れ出て、舗道を氷らしている景色を、直接的に素直に表現している。しかしここにも、碧梧桐の新鮮さがあるだろう。
当時の街路風景を、近代をさきがける構図として捉え、提示しているのだ。
碧梧桐は耳の人であったようにリズムを働かせているが、目の人でもあるようにその視線も有効的でハイカラなのだ。

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鳴滝や植木が中の蕃椒

M38

この句「鳴滝」は京都の名所の地名で、北山のその渓谷地は、植木が多く、唐辛子も植えられている風景に他ならないが、散文では、

 鳴滝は植木の中に唐辛子見える名所だよ

としようか。しかし、植木の中の唐辛子の赤さが新鮮なように、都の風物詩としてはすぐれた名作だろう。滝が鳴るような渓流を持つ鳴滝は、流れる水音が滝のように聞えているとも。コトバ「鳴滝」が、「鳴滝」を目立つものともしている。

俳句という短詩を日本の風物詩として定着させたのは、明治30年代にあったこうした作風の貢献であったのでは―。

なお、明治38年発表したこの作品、4年前には枯れ木としてある。枯れ木を植木に添削した碧梧桐に、鋭い才能を感じる。

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軒落ちし雪窮巷を塞ぎけり

M38

漢語調は、碧梧桐に多く見られる。「窮巷」は「陋巷」と同じで狭い路地。三尺の露地をはさんでいる裏店の貧しい家々がそこに並んでいる。「陋巷」よりも「窮巷」の方が、一層貧のきびしさをつよく感ずるのは、切迫の語感のためか。軒からずり落ちた雪が、せまい路地を塞ぎ、人々を閉じこめたかなしさ、語感の巧みに利用された句。(阿部喜三男)

漢語調は談林時代の芭蕉にも多く見られたが、四拍子がくりかえされたように、漢字もイメージとして試みられていた。詩形は、真似ることでなく試みることで確かめられるもの。

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