前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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牡蛎船に大阪一の艶話かな

M39

運河がどこまでも入りくんでいる大阪では、牡蛎船はどこでも見られた風景。牡蛎船での飲酒は夜毎盛りあがりを見せていた。当然、カキ船では常時男女の自慢話があったが、その中、そのこもった愛欲が、大阪一の艶話になったという、この誇張が非常に面白い。世界一でなく、日本一でなく、大阪一というところにそこはかとなくある大阪人の気概!

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桑植て紅葉のことは知らぬ也

M38

どうしてそうなるのか、一瞬不審がおこるかも知れない。紅葉を知らない人は存在しないから・・・。
しかしさらに一瞬後、桑植える人々、蚕飼う人々、絹を織る人達の生活が身近にある時、ハタとこの作品の意味を諒解してしまう。
桑の木は植えて後、紅葉を見ることはないのだ。つまり、青葉であるうちに蚕の為に、ひっきりなしにむしりとられる。桑は青葉から裸になるまでムシリとられるのだ。
わからないことが、一瞬わかることになる。そこには日常生活をとおして、新鮮さがあらわれるのだ。
この感覚の段差にも、詩的感激がひそんでいるといえるのではないか。

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木枯や谷中の道を塔の下

M33

木を枯らす風という意で、凩とも書く、初冬に吹く強い風で、落葉を誘う。谷中は東京台東区、上野公園の北方に続くあたりで、寺院や基地が多く樹木も多い。子規の住んだ根岸にも近いので、実際に歩いたに違いない。寺院や基地の道を歩いて来て、塔の下へ来ると、ひとしおその冬らしい感が身にせまる。頭を圧するような木枯の中の古塔・・・・・・(阿部喜三男)

克明に書かれた阿部の鑑賞をただ追うだけでよいようだ。碧梧桐の吟詠さえ、克明、適格。
コトバを追うだけで、声調を感じさせる。

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からまつは淋しき木なり赤蜻蛉

M35

後に、この作品は北原白秋の有名な作

 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。

(「落葉松」・・・大正十年十月)とくらべ、「からまつ」を「淋しき木」と見る詩人の眼は相通じている(大野林火)と書かれているけれども、それはもう、二十年を隔つ模倣と知らねばならないのだ。
ある意味で、時代の感性は散文とともに動いたものでもあって、白秋は碧梧桐をただ情況的に受け継いだ傾向にあるとも言える。
子規が「芭蕉雑談」で、

 古を模倣せしにあらずして自ら発明せしなり

と語ったように、新たにどのように捉え直したかが問題なのだ。
碧梧桐にはからまつに重層した赤蜻蛉(とんぼ)群の色彩がある。

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楠椿槙の大樹や露時雨

M36

当時、季題に「露時雨」はなかったようだ。はじめて熟語が使われている。

楠、椿、槙の大樹らが空が見えなくなるほど茂っていて、或時、その森の中に時雨がどっと降って来た。それが時雨ではなくて、大樹にこもった露であった、という驚き。
ここには宇宙的な空間の感触、自然の響がある。

高浜虚子は当時小説を唱えていたが、大正二年に俳句に復活、昭和二年に有季定型を唱えた。その虚子がこの句を「秀れた一句」と絶賛しているが、やはり、注目しておかねばならない一面である。

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