前頭芋

詩人・来空(らいくう)による、リトル・ポエムの世界

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あきかぜぞまたをくぐって失にけり

M23

あたま(上五)にある「ぞ」の入り方がオモシロイ。当時さえ、こうしたホックは珍しいのだ。
股間をくぐって無くなる秋風だから、「秋風ぞ」という強い言い方ができる。
当時より碧梧桐には、この句のようなザレ句が多いが、そこに一般的普遍があって、見えてない世界を体感させる俗的なかかわり方があることに注目を・・・。

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会下の友想へば銀杏黄落す

M40

「会下(えげ)の友想へば」というは、共に参禅した友を指していう。銀杏黄落(おうらく)する目前の風物のあわれなる時、七友を想起したというのである。会下の友だけに、銀杏の厳粛な木ぶりやら玲瓏たる黄葉やらが調和するように思う。(大須賀乙字)

一つのあたらしい表現として、古語漢語を甦らせることも、コトバをどう働かせるか、体験しなければならない作家的必然。時代時代は、つねにそうした過程をも含んでいるとしなければならない。
確いコトバ黄落を、空一面に見立てて効果を出している。

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馬独り忽と戻りぬ飛ぶ蛍

M38

「馬独り」と叙し「忽と戻りぬ」といった表現に驚くというよりも、豊富な季節感情を捉えて、自然観賞の深さを示し、朗々たる調子の妙を発揮している事に驚嘆する。(安斎桜傀子)

叙法に異色がある。当時としては、ずいぶん新しい作風であったろう。ことに「ひとり」と「こつと」と修飾語を重ねたところ、突然の思いがよく出ている。そういうサスペンスを強めるように「飛ぶ蛍」と置き、無音の照明を与えたところがおもしろい。従来の蛍の連想の範囲を越え、しかも、十分蛍の情趣を備えている作品。(中島斌雄)

両者の鑑賞をふかく読みとることも大切なことだろう。

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丘の上やちよと海を見て風薫る

M30

多分、こうした傾向を、詩文と地文との関係で問い直すことも必要だろう。
「ひとり旅の記」が示唆するのは、現代的には「ちょっと海を見て」あたりの、口語話しコトバが表現としてあらわれ出たことだ。
例えば、この日記の散文、旧套的な地文といったものからいうなら、これらのコトバが現実に刺激的にあらわれ出るものだったことだ。
地の散文と違って、詩に飛躍があって当然で、詩作品はむしろ、新鮮なまでに別物でなければならない。
この関係が、以降日本では、完全に見失われている。地文(散文)に埋まってしまう古くさい詩を尊重するなど、もってのほかとしなければならないのだが・・・。

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烏帽子屋へ殿の使や春の宵

M32

蕪村の影響をつよく受けた作品だろう。

蕪女倶して内裏拝まんおぼろ月
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 蕪村

烏帽子は昔、貴人が平服時かぶった。階級によって形が変わり、無官者は儀式の時にかぶったもの。使いは美少年か、奇妙に艶っぽいイメージも興るようである。
碧梧桐にこうした着想もあったが、中村草田男はこの句を、

碧梧桐はローマン主義の素質をもちながら、以後、ローマン精神の根本義を自覚せずに失敗。

とした。
しかし、あらかじめある主義とか美意識は必要ないはず。時代が個々に、あたらしい時代のあたらしい艶も呉れる筈だから―。

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